Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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政治の不可視の現在
作成: 永澤 護 日時: 2011年7月23日 11:40

そもそも本気で核に固執する政治勢力がいるのかどうか怪しい。全ては初めから偽装された、というより偽装こそが核戦略ゲームの優れて本質的な、空虚な核心だった。そして現在はすでに別の兵器体系による別のゲームに移行しているのではないか。もしそのことに例の「保守派」もどき (この人たちは実は「保守」と言えないからだが)が気づいていないとすれば、所詮政治に疎い「言論人」だからどうでもいいとは言えず深刻かつ滑稽だ。これまでと同様に。

「政治」とはそもそもの初めから、数千万人オーダーあるいは全人類の「現実的消滅」の「可能性」を平然ともてあそんで虚構のゲームを続けるというものではないのか。現実性と可能性との戯れをいかに上手く料理するのか ---そこでは現実に膨大な死者が出ても、それすらあくまで「(政治的)可能性の現実化」という事後的な、虚構的位置づけがなされてしまう。

恐ろしいことは、今回の津波・地震・福島原発事故の総体も直ちにある種の政治的可能性の現実化に過ぎないものとして平然と冷静に意味づけされ語られてしまうことで、そうなった(つねにすでにそうなっているわけだが)瞬間から次のすでに始まっている政治的プログラムに組み込まれてしまいその組み込みが現状の政治過程になっているということだ。言い換えれ ば、そこでは「今回の事態が政治的に予め仕組まれていたかどうか」という二者択一が消失するというきわめて危険な状況が生まれているともいえる。


シェアした投稿:原子力発電所(平常運転時)と癌の関係 - 言葉の体験記 - Yahoo!ブログに対する樋口大二氏のコメントに関する私見

作成日時: 2011年9月2日 16:37

※まず樋口大二氏により非常に根本的・普遍的なコメントをしていただいたことに感謝します。今回の原発事故及び核施設に関わる問題に言及するどのような投稿に関しても効いてくる枢要なポイントを指摘しており本来なら全国民が議論すべき問題であることは間違いないと思われます。

・まず、たしかに自閉症というsensitiveなケースに関しては言及すること自体に問題はあるかなとは思います。

・なお相関関係と因果関係の差異(ここで分かっていないとは思えませんが)を放射線障害の効果に関して議論することは、「専門家」内部に限らずさらに社会的な文脈をも考慮したより根底的な次元において、国民各自が参加する様々な場ですぐにでも行われるのが望ましいし必要だと思います。

・が、同時にかなり困難な課題であることもいうまでもないと思います。ですから、これら両者が厳密に区分不可能な現状において可能な限り相関性から飛躍して因果性へと推論できると「科学的に確信できるまで何もいうべきではない」という立場もあり得るしそういった信念の方は議論の場であくまでそういった姿勢で議論すればいいでしょう。

・私の立場は上述したもの(「「専門家」内部に限らず~望ましいし必要だ」というもの)であり、従ってこのブログ主の方の言論の自由は保障されるしその主張の共有(ここでは「シェア」ですが)も何の問題もないと考えます。

・しかし当然のことながら、最低限相関関係のレベルでの言論の提示だということを明示した上でさらにその関係性を厳密にしていく必要はあります。もしその条件に不足があると考えた任意の方(この場合は樋口さん?)が、言論を行った方に直接要求すればいいでしょう。今後あらためて定点観測的に、かなりの時間とサンプル数が積み重ねられなければ、厳密な意味での因果関係の立証は当面不可能ですから。

・私は、あくまで一つの発想としてですが、低線量から中程度(この中という言い方にどれだけの意味があるのかは保留します)被曝の場合、「現存する医学水準での同一の可能な限りの治療を施してもその治療効果に有意味な差異(一方は効果ありだが他方は果々しい効果が見られない場合)が見られるかどうか」という「治療対効果の因果性」レベルの差異に注目すべきだと思います。

・そこからそういった差異を齎した要因を絞り込みながら推論していくことで放射能による障害かどうかを何とか判別できないかということです。

・これからまた文章を再検討してより厳密で掘り下げた考察を展開していきたいと思います。このところそういった本来行うべき作業の時間をほとんど割愛してきましたので。


松本麻里さんのエッセイ「水のおもさと、反原発」を読んで
作成:日時: 2011年9月27日 17:03

現代思想今月号所収、「水のおもさと、反原発」を読んだ。
「チェルノブイリ事後以後の反原発運動につどった無名の「女性」たちの行動や表現を、逆に「母性主義」という“言説”の中に矮小化して封じ込めてしまうのではないかとも。ひとは「母性」というイデオロギーだけにひきつけられて行動したり、運動したりするのではない。」(p.172)

その通りだと思う。私は、まだ二十代だった1987年に、伊方原発出力調整実験反対にも関わるそれなりに強度の高い運動のただなかで、自分自身が営む店を拠点に多くの人を結びつけていたその当時42歳の一人の女性と知り合い、その店の常連だったことがあった。私自身はほとんど運動らしい運動は何もできなかったが、その空間が日々創りだしていた経験が、今も鮮やかな記憶となってよみがえる。そのときの店内の照明の光のままに。その人は、パキスタンのフンザ(Hunza)という地域に何年か滞在した後帰国してその店を開いたのだが、月並みな言い方をするなら、私は彼女の知性と感性のある種の質(クオリア)に魅了されたといえる。

その経験からいえること---。「母性」をイデオロギー装置として組み立て、操作するのは、今も昔も、おそらくは「出来事」の生成のただなかで行動する当事者である「女性」たちではなく、その「女性」たちを捕獲し抹消しようとする者たちであること。たとえばここで、「らい予防法」と不可分一体の「優生保護法」、そしてそれが「改正」された「母体保護法」をあえて持ち出す必要があるだろうか?(たぶん繰り返して指摘する必要があるのだろう。)

そのときのほかの「女性」たちは知らない。だが、私が出会ったその当時の女性たちには、少なくても、驚くほど自覚的に行動し続けていた彼女たちには、そのことは完全にわかっていたと思う。


Pascalの追憶に
作成: 永澤 護 日時: 2011年5月12日 14:12

「人間は考える葦である」――あまりにも有名なパスカルの言葉だ。そのポイントはおそらく、「人間は自らが滅ぼされる(殺される)ときでも、それを明晰に意識し認識できる、ということにのみ人間の強さがある」ということだろう。

確かに、精神が否認を持続できる残り時間は限られている。

しかしそのとき(の直前)、極めて多くの、今このときにおいても否認と不可分な精神は、

「単に機能停止し壊れるだけ」なのではないか? 

単にそれら精神は、認識などとは遂に無縁に、雲散霧消するだけなのではないか? 

たとえすべてとはいえないとしても、そしてその後の変容と生成があり得るのかは未知だとしても-----


過去と現在、そして未来への覚え書き
日時: 2012年2月17日 11:01

自民党も民主党も---既成政党・政治家たちがこぞって「橋本大旋風」に恐れおののいているという話がいたるところから聞こえている。だが、連日のマスコミ報道、とくにTVのそれが存在していなければ、「そんなものはまったくあり得なかった」ということ。これほど自明なことはない。テレビが存在していなかった時代に、誰よりもヒトラーはそのことを先取りしていたに違いない。坂本龍馬神話もどこかの物書きがいなければ生まれようはなかったのと同じである。いつの時代にも、今日テレビで「こんなこと」を聞けばそれをさも自分の頭で考えたかのようにべらべら得意げに話し、次の日に「まったく矛盾する別の話」をテレビで聞けば、また同じくそれをさも自分の頭で考えたかのようにべらべら得意げに話すといったことを「何十年も死ぬまで」続ける空っぽの人間たちが多いものである。現状のこの国はまさにそうなっている。だがそれだけではない。連合国総司令部の当初の基本方針からテレビ放送が開始され、歴史的にそういった現状が作り出されてきたというその歴史性・社会的構築が問われなければならない。現在のように最初から民衆は無批判にテレビのいうことを信じ込んでいるだけではなかった。そこへと回収されないはるかに大きな、そして多様なエネルギーを持っていたのだ。しかしスペクタクル社会は、とくに70年代以降圧倒的に大勢となっていった。賢明な方々はこういえばすぐ具体的なことがぴんとくるはずなのだが---。フェイスブックでの私の多くの友達もそうだが、フェイスブックには、70年代以降に生まれた人が多いだろう。しかし実に悲しいことに、彼女たち彼らの生まれたときには、上述の大衆操作のレベルにおいては、そしてそれ以前の民衆のエネルギーと知的な遺産の継承という点において、すでにこの国は「ほぼ完全に終わっていた」のである。そのことは、70年代半ばの私の精神の崩壊に近い痛みの経験が証言できる。福島第一をはじめとする原発が次々と稼働し始めるのも70年代からだ(福島第一:営業運転開始日 1971年3月、美浜一号機:1970年11月28日等々)。アマゾンではその当時の良書のほとんどが「出品者から」となっていることもその傍証である。それは決して誇張ではない。調べれば分かることだ。それら遺産はすくなくてもいったんは根絶やしにされたのだ。公教育から完全に排除されているのだから、現在のとくに三十代以下の若い人たちは生まれたときからそれら遺産から隔離されていたわけだ。80年代後半の反核運動に持続性と深みが欠けていたのもその過去の民衆のエネルギーと知的な遺産の継承がなかったことによるだろう。まったくなかったとはいわないが。だが、今はその大衆操作が絶頂に到達したあとの没落の時代であるがゆえに、その長い悪夢の時代が崩れ去りつつある過渡期である。道は極めて厳しいものとなる。この終わりの終わりをあらたに開始しよう。


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